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Channel: kyupinの日記 気が向けば更新
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爆心地

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今日はお彼岸である。

うちのオヤジは広島に原爆が落とされた日、学徒動員で岩国市にいた。昭和20年8月6日、原爆の日、東の空が真っ黒になったという。何が起こっているのかよくわからず、実に不気味で、人々の心に不安を呼びこすような光景だったらしい。近所に住んでいた人たちがすぐに遊んでた子供を家に呼び戻したほどであった。

オヤジはまだ戦争に召集されるような年齢ではなかった。しかし人手が不足しており、その日かその翌日、広島市まで遺体を片付けに行くように命じられた。道も混乱しており、皆で線路を歩いて広島まで行ったという。

広島市は悲惨の一言だったらしい。ところが、僕はオヤジからその時の話をほとんど聞いたことがない。その大きな理由は、オヤジが語ろうとしなかったから。唯一、真夏であり、大変な臭いだったと言うのは聴いたことがある。

つまり、うちのオヤジは残留被爆している。(入市被爆者)


これは、今から68年前のある日の出来事である。

うちのオヤジの家系は元々癌で亡くなる人がほとんどいない。しかし、オヤジはC型肝炎だったとは言え、あっさり癌になっている。肝硬変は前癌状態とも言えるが、全員が癌になるものではない。この点で、多少は残留被爆が関係しているのかもしれない。

戦時中のことでオヤジから聴いたことの1つに駅での出来事がある。

その日、空襲警報のサイレンが鳴り、人々はすぐに防空壕などに隠れたが、駅構内にいる人は線路に飛び降り、汽車の下に隠れる人もけっこういたと言う。

当時、空襲の際に、汽車や貨車の下に隠れることは、決してすべきではないことだった。

なぜなら、爆撃で汽車が動いたり脱線したりし、体を挟まれることがあるから。しかし、なお汽車の下に隠れる人が多かったのは、逃げ遅れて建物に爆弾が直撃して死亡するよりは、まだ汽車の下が生き残る確率が高かったからかもしれない。

その日、空襲の際に停車中の汽車が爆撃で動き、ある若い女性が腕を汽車の車輪に挟まれた。その瞬間、駅中に響き渡るような叫び声をあげた。駅にいた人々が集まったが、急にはどうすることもできない。汽車は脱線していたからである。オヤジはその場をすぐに立ち去らねばならなかったため、その後の女性の消息は知らないと言う。

オヤジは当時の日本人としては体格が良く、子供の頃、学校の先生から予科練に志願するようにしきりに勧められたらしい。しかし、父親は長男だったので母親が許さなかったという。

予科練は戦争末期、特攻機の搭乗員としてかなりの人が戦死している。

しかし、予科練は14歳からしか志願できなかったので、オヤジが行っていたとしても、終戦までに特攻機に乗れる年齢に達しなかった。

中国地方には、広島大学出身の先生がたくさんおり、そのためか授業中、被爆経験のある先生の話を聴く機会があった。ある先生は原爆が投下された日、自宅の2階にいたが、一瞬のうちに家が倒壊したという。その日、父親以外の家族の全員が亡くなった。

母親や兄や妹たちがある日、一瞬で亡くなるのは大変にショックなことだ。

と話していたが、確かにその通りだと思う。その先生は、自分も被爆をしているため、子供ができた時、無事に生まれるのか大変な不安があったという。しかし見かけ上、健康に生まれたのである。(無事で良かったという話だった)

実はこの話には続きがあり、後年、ある事実を知った。その子供は後に白血病で亡くなっているらしい。

自分は精神科医になり、稀に被爆した高齢の人を診る機会がある。自分の患者さんの場合、ほとんどが女性である。ある姉妹は、1名は2回異なる癌になったものの、いずれも治癒しており今も高齢者なりに普通に生活されている。要介護度は非該当である。その妹さんは癌になったことはなく、健康である(高齢ではあるが)。

昭和20年に被爆して、この時代まで生きておられる人は、生命力が強いと言わざるを得ない。

太平洋戦争末期、果たして原爆まで落とす必要があったものか議論されることがある。アメリカは硫黄島の戦いで、毒ガスを使えば人的損害が少なく占領できることが予測されたが、当時の大統領がそれを許さなかった。国際的な非難を浴びるのがわかっていたからである。

戦争はルールがないように見えるが、実はそれらしきものがある。

ナチスドイツは、莫大な量の毒ガスを保有していたが、戦略上、それを使うことはなかった。これはさまざまな理由が語られているが、1つはヒトラーが第一次大戦で自らが毒ガスによる被害を受けており、もしドイツが毒ガスを使用すると、連合国が毒ガスで報復し、国民に大変な苦しみを与えることを懸念したからという。ヒトラーでさえ、戦争では毒ガスを使用していないのである。(収容所で使用されたかどうかは議論がある)

もし原爆まで落とされなかったら、日本の無条件降伏がもう少し遅れ、ソ連が進軍し北海道まで占領されていた可能性もある。もしその辺りまで降伏が遅れていたなら、日本の戦後がかなり変わっていたかもしれない。

日本は広島、長崎に原爆が投下され、それがとてつもない兵器であることを知った時、アメリカが原爆の保有数まではわからなかったと思われる。あの時点では、原爆という兵器は戦争を続けるモチベーションを落とさせたことは確かだと思う。

戦争末期、日本人の感性はおかしくなっており、本土決戦の準備をしているほどだった。昭和20年8月の時点で、本土にまで上陸されていないのに、降伏することはなかなか決断できなかったような気がする。

実際、北杜夫の本で、

一億玉砕の精神にしばられていたので、空襲で大被害が出ているとは言え、まだこれだけの日本人が生き残っているのに、降伏するのが信じられなかった。平和な日本に生きた人は、この異常な心理が理解できないだろう。

という記載を見たことがある。

原爆投下という行為が、人道的な見地から、常軌を外れて極悪で許し難いものと見なされていることは、東京裁判の際にも見てとれる。日本の戦争犯罪は原爆投下以後、降伏までの数日間はその報復として許されるといった議論が判事や弁護人により語られているからである。

参考
20歳前の人なら、まずは25歳くらいまでに良くなれば
父島
日赤従軍看護婦
将棋の話

(この記事は平成23年3月の彼岸に合わせて準備していましたが、震災及び原発事故のため今日までボツ原稿にしていました。なお、岩国市ですが、自分は馴染みがなく、子供の頃、錦帯橋に行ったことがあるだけです)


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