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精神科医の聴取の能力と記述の能力

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先日、初診の話をアップしている。今回は診察時の精神科医の聴取の能力と記述の能力について。

 

精神科医は患者さんの主訴を聴くだけでなく、本人が注意していない症状を含め、精神症状の全体像をしっかり聴取する能力が必要である。これは精神症状は、MRIのように誰が見ても認識できる検査で測れないことと関係が深い。

 

例えばいつも表情が暗い、小さな声で話す、姿勢が悪いなどは本人が訴えることはまずない。文脈中、最近、お母さんが言ったくらいは聴くことがある。その程度である。

 

またこれらの情報を聴取したとして、カルテに上手く記載できるかどうかの能力も関係する。僕は後半の記述の能力は平均より低いのではないかと思っている。稀にドストエフスキー並みに上手い精神科医がおり、昔、研修医時代にカルテ庫に行って勉強したことがあるが、学ぶことも容易ではなかった。

 

というのは、達筆すぎて全然読めなかったりするからである。今の大学病院は電子カルテなので達筆の障壁はないと思うが、電子カルテだと、そういう芸術的な文章はかえって少ないように思う。いや、なんとなく。

 

ドストエフスキーと書いたが、基本、カルテは文学的に書いてはならないという定石がある(本当か?)。

 

 

その患者さんを診たことがない医師がそのカルテを読んだ際、同じ診察体験を共有できるカルテが最も良いと考えている。簡単に言っているが容易ではない。精神所見には曖昧で抽象的なものが多い上に、日本語で表現し辛いものが多いからである。

 

ところが、映像を呼び起こすような素晴らしいカルテを書く人が、必ずしも精神科治療が上手いとは限らないのである。

 

ここが難しいところで、カルテ記載の巧拙と精神科治療の絶対的能力はまた別の能力だからなのであろう。

 

過去ログで出てくる1行医師は、全てシンプルを心がけており処方もシンプルなことが多かった。これは美しいカルテが書けるが、治療が下手な医師より遥かに良い。カルテに1行しか書かない医師は以下の記事に出てくる。

 

 

結局、精神科医は患者さんを観察し「症状を把握すること」、「カルテにそれを記載すること」、「治療を行う能力」は脳の異なるコンパートメントにあるのであろう。そう考えると良く理解できる。

 

上の3つの能力のうち、「症状を把握すること」と「治療を行う能力」の2つはかなり関係が深い。症状をしっかり把握できないのに上手く治療はできないからである。症状を把握することはその精神疾患の全体像をイメージすることである。イメージできなくては奥行きのある治療などできないであろう。

 

それに対し、症状をうまく記載できるかどうかは他の2つとは異なり、文学的才能の有無の方が大きい。つまり精神科治療にはさほど重要ではないのだろう。だからこそ、「文学的に書いてはならない」と言われていたのである。

 

今から考えると、「頑張って文学的に美しく書く必要はない」くらいの意味だったような気がする。


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