今回は、天草、下田温泉に旅行した時の観光の後半。なお前半は上の記事である。
最初、この光景を見た時びっくりした。遥か向こうだが、小さな漁村に教会が⛪️建っていたからである。まさにドラゴンクエストⅡの世界だった。
近づいていくとこんな感じ。天草の﨑津集落は世界文化遺産にも登録されている。以下はWEBサイト。
入江の景色。
天草のキリスト教の遺産の建造物の中は撮影がほぼ禁じられている。
上にあるように、フランス人の神父は、かつて踏み絵が行われていた吉田庄屋役宅跡に﨑津教会を建てた。
この日は既に夕方に近かったのだが、天候に恵まれて綺麗な写真が撮影できている。
﨑津教会正面。中にも入れるが撮影は禁止。
向かって右側にある﨑津資料館みなと屋の中の資料は撮影が許可されていた。以下は展示物など。
これらの写真は長崎との位置関係がわかる。
16世紀後半、この地のほとんどの村人はキリスト教徒になったと記載されている。
ブラジルのリオデジャネイロにもこの像がないか?と思ったが、コルコバードの丘の巨大な像はマリア像ではなく、キリストの像である。
江戸時代までの年表。
豊臣秀吉や徳川家康は当初は利益が上がる南蛮貿易を優先したため次第にキリシタンが増加。そして遂に30万人を超えるのである。危機感を持った幕府は1614年禁教令を発布したが、その後、天草島原の乱が起こる。その辺りの経緯が記載されている。
1805年の天草崩れ事件はなぜあのような大岡裁きと言うか穏便な措置で済んだのか不思議に思っていた。色々な要因があるが、ひとつは信者が多すぎたこと。彼らを全て処刑するとその地域の産業が成り立たなくなるし、再び内乱が起こるリスクもあると判断されたのだろう。
また、彼らのキリスト教は既に変質しており、本来のキリスト教とは異なっていたこともあった。その理由は200年近く外国人の司祭などいなかったからである。江戸幕府が多くのキリシタン?を邪教の信者扱いにしたのは、ウィンウィンの措置だったのだと思う。(宗門心得違い)
実際、明治以降、カトリックが入ってくると、彼らはそれを受け入れない人たちもいた。
キリスト教が日本で流行らなかった理由の1つは、日本人の知的レベルが高すぎたと言う話がある。宣教師を逆に問い詰めて、キリスト教の矛盾を指摘していたらしい。
宣教師が逆に論破されては仕方ないでしょう、といった感じである。
世界的にも、日本人は宗教なしで生活が成り立つ稀有な国民だと思う。
参考