「僕はあなたを愛しています」とブールミンは言った「心から、あなたを、愛しています」
マリヤ・ガヴリーロヴナは、さっと顔をあからめて、いよいよ深くうなだれた。
――プウシキン(吹雪)
「犯人」という短編は上のような文章から始まる。この作品は青空文庫で読める。短い作品なので興味がある人は以下のリンクで読んでみてほしい。
この中の主人公(=犯人)は、激情して姉を肉切り包丁で刺した際、姉を殺したと思ったが、実はそうではなかった。とても助かりそうにない光景が描かれており、医師から見るとちょっと腑に落ちない描写だと思う。
主人公が姉を刺した理由は、結婚して恋人と一緒に住むために部屋を貸してくれると義兄から言われていたのに、姉が貸してくれなかったからである。おまけに馬鹿にされてしまうのである。
この事件の後、最悪の展開になり、主人公は静岡の旅館で大量にブロバリンを服薬し自殺してしまう。文中にはブロバリン200錠と記載されている。
このブロバリンだが、現在は発売中止になっており眠剤としては手に入らない。僕が医師になった頃、どうしても眠れない患者さんにイソブロという約束処方のようなものがあった。これはイソミタールとブロバリンの細粒の双方が入っていた。これを飲むと麻酔をしたかのように眠ったものだが、特にイソミタールは量が多いとそのまま死にかねない薬なので、次第に処方されなくなった。イソミタールは2022年11月に供給中止になっている。
イソミタールは病棟で重い患者さんに使うならまだしも、外来では怖くて処方できない薬だった。ベゲタミンAなんてイソミタールに比べると可愛いものである。
イソブロの中のブロバリンはいまいちインパクトがない(効かないという意味とはちょっと違う)薬で、大量に服用しても自殺に失敗しやすい眠剤である。そのブロバリンも2021年10月に供給停止となっている。
今は、ほとんどの単科精神科病院の院内薬局には、もはやイソミタールもブロバリンも在庫が残っていないと思う。
太宰治の「犯人」という短編は終戦直後が時代背景になっているが、当時はブロバリンは普通に薬局で買えたようである。ここで太宰治が服薬自殺に「ブロバリン」を挙げているのは、自分が何度も自殺目的で使ったからである。ただし、同じ成分の別商品「カルモチン」であった。
太宰治はブロバリンなる薬がいかなる睡眠薬なのか、何度も自殺企図に使っていたのでよくわかっていたのである。太宰治は何度もブロバリンの大量服薬で自殺未遂し、その体験が、作品に取り入れられているのである。
太宰治は、「走れメロス」などの有名な短編があるが、「犯人」のようなそこまで有名ではない短編でさえ読んでみると彼の凄さがわかる。