自分の精神科医としてのスタイルとして、「患者さんの個々の言動をさほど重視しない」というものがある。特に統合失調症の患者さんについてはそうである。
これが診察時間の短さや、精神療法の相対的軽視につながっていると思う。
たいていの自分の世代の友人もそうだが、カルテは系統的に書いていない。ダラダラ、まさに小学生の日記のようなものが多い。
昔はそれでも起承転結がわかるように書いていたが、今はそのような流れもなく、断片的に書いている上に、字が良く読めないので更に始末が悪い。時々、自分の字を外来の看護師さんに見てもらって、判読してもらうが、
本人が字が読めないのに、なぜ他人がわかる?
と言ったところ。看護師さんと一緒に笑っているが、読めるところも多いと言えば多いので、なんとかなっている。
先日、ちょっとこれは・・と思ったのは、
汚い字は何とでも読める。
ということ。これは確かに便利である。実のところ、字数などの関係で、そこまで自在にはならない。
診察中、患者さんから「このことは書かないでください」と頼まれなくても、僕が、これは書き辛いと思うようなものは書かない。つまりだが、品のない事柄は敢えて書かないのである。
これこそ、患者さんの個々の言動の相対的軽視を象徴していることだと思う。
このようなことから、カルテの内容は一層、厚みがなくなり、小学生か中学生の作文レベルになるのであった。
ある時、ある女性患者さんの家族から、裁判のためにカルテを借りたいと頼まれたことがあった。快諾し、全てのカルテを貸し出した。
この時、偶然だろうが、このようなカルテの書き方が良かったと思えたのである。
なぜなら、彼女はある時期、ここには書きにくい過去の告白をしており、全てそのままカルテに記載していたら、きっと彼女は離婚に追い込まれていたと思う。
しかし、あまりにも綺麗なノートのようなカルテだったので、全く問題にならならなかったのである。
なぜ品のないことを書かないかと言うと、決してこのような事態を想定していたわけではない。
そういう万一、他人が見た際に、その人がレッテルを張られるというか、そのような人だと思われることを精神科医として懸念しているのである。
それは自分があまり告知をしないタイプの精神科医であることも関係している。
またそういう考え方を象徴するような過去ログもいくつもあると思う。こういうスタイルも、精神科医の1つのタイプなんだと考えている。
参考
精神科の紹介状をどこまで書くかという考察
カルテにすら書かないこと
精神科医のカルテ
読めないカルテ、改善委員会
カルテは文学的に書いてはならない
精神科ではSOAPで書かれたカルテをあまり見ないこと
↧
「カルテにすら書かないこと」のメリット
↧