最近の精神科の教科書は知らないが、昔の教科書には統合失調症の妄想の例に必ず{天皇陛下が○○~」という内容が記載されていた。学生の時は授業や実習でしか患者さんを診ないので、それがどの頻度で出てくるのかわからなかった。
研修医になり統合失調症の患者さんに接するようになると、「天皇陛下」がどうこうなどと言う患者さんは滅多にいないことに気付いた。ほぼいなかったと言ってよい。
今から考えるとあの教科書が書かれた時代、つまりそれなりの年齢の精神科医の接する統合失調症患者さんの妄想とは、既に変わりつつあったのであろう。
その後、何年か診療をしていると、天皇陛下にまつわる妄想を言う人は稀ではあるが、全然いないわけではないことに驚いた。しかし教科書の内容とは少し異なっており、例えば「自分は天皇家の親戚の○○の御落胤です」と言ったこじんまりした妄想である。しかも同じようなことを言う人が他にもいるのである。
きっと統合失調症の人たちにとって、「天皇陛下」は全く異なる生活歴でも出現しうる特別な存在なのである。
現在入院治療中の統合失調症の患者さんでこのようなことを言う人が全くおらず、また現在、外来治療中及び新患の人たちにもいないので、おそらくここ15年ほど、妄想の文脈で天皇陛下というワードを聴いたことがない。
もはや天皇陛下にまつわる血統妄想は失われつつあるのかもしれない。
日本人にとって天皇陛下は絶対的な存在だった歴史がある。現在も日本人の心の中にあり、日本国民の象徴とされている。
そのようなことを考えると、かつての統合失調症の人たちは自分を天皇陛下ないしその家系に繋がりを持たせることで、膨大な不安感や恐怖感を緩和ないし消失しようとしたのかもしれない。
つまり天皇陛下にまつわる妄想は「世界没落体験」と無関係に独立して存在しているわけではなく、実はこの2つは関係が深いのである。急性期の妄想気分の経過中に世界没落体験のような異常体験が生じ、ある種の防衛機制のために一段と重くなったと言ったところだと思う。
日本人の心の中での天皇陛下の存在感が小さくなればなるほど、妄想の文脈で天皇陛下は出現しにくくなる。なぜなら、もはや膨大な恐怖感を消失させるほどの絶対的存在ではないからである。
僕が精神科医になった当時は、既に天皇陛下は絶対的存在ではない時代に移行していたのだろう。だからこそ滅多にそんなことは聴かなかったのである。
統合失調症の人の世界没落体験は他の精神疾患では滅多に聴かないレベルの巨大な異常体験である。
妄想性障害の人が天皇陛下の妄想を語らないのは、おそらく妄想性障害の人にはこのタイプの巨大エネルギーの異常体験がないからだと思う。妄想性障害の人たちの妄想が生じる道筋にはおそらく世界没落体験のようないかにも統合失調症らしい異常体験はない。
また広汎性発達障害の人たちの幻覚妄想にもこのレベルの妄想はない。
統合失調症にしかない特別で巨大な異常体験がないからこそ、妄想性障害に人にもあるいは広汎性発達障害にはプレコックス感がないような気がする。
きっとプレコックス感は、統合失調症の人にしか体験できない異常体験の痕跡(あるいは履歴)なのだろう。
参考
「それは統合失調症に移行したのではないのですか?」という言葉の違和感