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天皇の来訪時に町で保護される話

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昔、高校生の頃、理系クラスだったこともあり、古文の成績はいかんともし難かった。ある時、徒然草と枕草子だけは全て本文と全口語訳をつき合わせてほぼ暗記してしまった。

実際、徒然草は結構面白い読み物(エッセイ)だと思う。

ほぼ暗記と書いているが、だいたいのあらすじである。だから校内模試で、偶然、徒然草の一文が出題された時は、最初の1行を読んだだけで、設問は本文を読まなくてもだいたいわかった。完璧ではないが、古文だけは付け焼刃で好成績になるのである。

同時に現代文や漢文に時間が振り分けられるので、なお更有利になる。しかし、現代文の場合、数学のように長く考えたために偶然解き方を発見できるようにはできていない。したがって時間の有利さはさほど大きくはない。

しかし、模擬試験や当時の共通一次試験で、知名度が高い徒然草や枕草子が簡単に出題されるわけがないと言えた。さすがに模擬試験の会社も国も、そんなぬるいことをするわけがない。

徒然草と枕草子全文と書いたが、書籍を買って読んだだけなので、掲載されていない部分もあったかもしれない。

吉田兼好は、皇室をリスペクトしている文章を徒然草に書き残している。いわゆる、

竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。

である。

この感覚は日本人には戦前まではあったものと思われる。日本が無条件降伏をなかなか受け入れられなかったのは、天皇陛下が戦犯として裁かれることを非常に重大視したことがあったという。これはNHKのアーカイブを観ていた際、当時の大日本帝国の政府の要人や軍部の上層部の証言で度々語られていた。戦争で負けるのはわかっていたが、その後が到底耐え難いことだったようである。

一方、日本は沖縄戦などでカミカゼ特攻機による空母や戦艦に対する攻撃で米軍も実際の損害以上に心理的に堪えており、「無条件降伏ではなく、天皇制の維持まで譲歩してはどうか」と言う現場の軍人の意見も出ていたと言う。あれは当時としては、異次元の戦略だったのである。

沖縄戦は、米軍の損害もさることながら、大変な数の米兵の精神を蝕んだ。

いわゆる戦争神経症である。沖縄では日本軍は丘陵地にトンネルを掘り、アメリカの海兵隊が丘陵に上がってきたところを挟み撃ちにし、アメリカ軍に甚大な損害を負わせた。当時戦った退役軍人の話だが、日本軍は非常に汚い戦いをして来たという。(戦い方が上手いという意味)。

そのようなわけで、当初は著しい緊張状態や戦友の戦死率の高さのため、半狂乱に陥る人が多数だったのである。精神を病んだ兵士は後方に送られ治療を受けたが、初回は戦地に復帰できる率が高かったものの、2回目は重すぎて、復帰できる率が非常に下がったという。そのため、見かけ上、健康な状態で復員できた人が少数しかいない海兵隊の部隊もある。

この初回はまだ良いが、2回目はそう簡単ではないと言うのは、精神科治療の臨床経験と一致する。(参考

後半のアメリカ軍の戦争神経症の病因は前半の沖縄戦とは異なっていた。それはまだ幼い少年などが自爆攻撃をすることによる心理的ショックである。

日本軍は「捕虜にならない前提」があったため、かえって悲惨なことが多く生じたと言える。捕虜にならないためには、捕虜になる直前に決死の突撃をするか、捕らえられた瞬間、米兵を巻き添えにして手榴弾で自殺するしかない。それをほんの子供がしていたため、状況が曖昧な場合は、米兵は子供でも殺さざるを得ない。このようなことが大変なストレスになるのである。

日本軍は、ペリリュー島(現、パラオ共和国)の戦い辺りから、うまく戦えるようになっており、実際、この戦いでは双方の戦傷者は互角である。(日本軍:戦死 10,695、米軍:戦死 1,794、負傷 8,010)

この戦い方は硫黄島の戦いや沖縄戦に受け継がれていく。日本人の将軍で最も優れた軍人は?と言う質問に対し、西欧の研究者は硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道陸軍大将を挙げる人が多いらしい。この硫黄島の戦いでは、勝利したのにもかかわらず、アメリカ軍の戦傷者数が日本軍の戦傷者数を超えるという稀有な結果になっている。(ただし、日本軍は戦死率が非常に高い)

沖縄戦はいかなる戦いに受け継がれたかというとベトナム戦争である。当時の北ベトナム軍は、は日本軍の末期の戦術を非常に参考にしている。

僕の患者さんで、アジア、ヨーロッパ各国の工場を出張で訪れる人がいるが、アジアではべトナムの人は最も部品作りが丁寧で、日本人の物造りの感性に近いと言う。(この人の話

かつて日本は元寇の戦いで神風が吹き2度勝利したが、これは偶然性も高い。つまり日本は運に恵まれていた。その後、元は態勢を立て直し当時のベトナムを攻めている。迎え撃ったベトナムは、陳興道という優れた武将により当時の強国、元に勝利したのである。(現在のホーチミン市に像が建てられている。また、ベトナムの神社?の様な建物の中に、陳興道の像がよく祭ってある。)

ベトナムは当時の最強国に近い元(13世紀)とアメリカ(20世紀)に勝利しているので、旗判定では歴代世界最強である。

今日のタイトルは「天皇の来訪時に町で保護される話」になっているので本題に戻る。

僕がまだ精神科医になった当時は、天皇陛下が来訪時には、各精神科病院に警察官が数名訪れ、来訪時に病状の悪い人は外出させないように指導された。

今だったら問題になるようなことだが、当時はそうだったのである。これは万一、事故があった場合、地元の警察署長どころか県警のトップのクビは軽く飛ぶので、安全確保のため、そのくらいの覚悟で望んでいたものと思われる。

しかしである。
「病状が悪い人」という線引きが難しい。


精神科医は自傷他害の恐れがなく、開放病棟の人を外出制限するのは容易ではない。開放病棟の理念からしてもそうだし、当時の開放病棟にいる人とは、下宿屋の住人に近かったからである。(当時は今よりずっと社会的入院が多かった)

患者さんにもよるが、天皇陛下を強くリスペクトしている人もおり、今後、一生、天皇陛下を見ることができないと思えば、見に行かないことは耐えられないと言えた。

かくして、自分の患者さんだけで3名の人が、現場で警察官により身柄確保されたのである。

なぜ保護されたのか?と本人が僕に聴くので、

その髪型(モヒカン風スキンヘッド)だと、怪しまれても仕方がない。あれほどエキセントリックな格好は拙いと言っていただろう。

と答えた。そのくらい存在が際立っていたため、警察も安全策を取ったのである。

今から考えると、彼は天皇陛下に自分を見てほしかったのもあると思われる。わざわざ外出後、奇妙なスキンヘッドに髪型を整えて現場に急行したからである。

結果的に、彼は天皇陛下を見ることができなかったので、一生の不覚だったと言えた。

参考
日赤従軍看護婦
父島


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