この世の中には、こんなに素晴らしい演奏ができる人たちがいる。ジョンケイルのヴォーカルも良いが、特にルー・リードのギター演奏が秀逸。
上はスタジオアルバムの同じ楽曲である。スタジオアルバムの方が、ルーリードのギタープレイがより丁寧だと思う。僕はギターに関してはこの演奏の方が気に入っている。上の画像は、Lou Reed & John Cale というアルバムのジャケットそのままである。
- Smalltown
- Open House
- Style It Takes
- Work
- Trouble with Classicists
- Starlight
- Faces and Names
- Images
- Slip Away (A Warning)
- It Wasn't Me
- I Believe
- Nobody But You
- A Dream
- Forever Changed
- Hello It's Me
上の映像は、ルー・リードとジョン・ケイルによる共作Songs for DrellaというアルバムのForever Changedである。これはスタジオアルバムだけ発売されているようで、ライブ演奏のDVDはアマゾンでは見つからなかった。ライブ演奏は以前、WOWWOWで放映されたことがあるので観た人もいるかもしれない。
Style It Takes 。この曲もヴォーカルはジョン・ケイルである。お互いにニッコリし、曲が始まっている。仲が悪いのに・・
ルー・リードとジョン・ケイルはヴェルベット・アンダーグラウンドの主要メンバーである。ルー・リードはニューヨークのブルックリン出身のミュージシャンで、シラキューズ大学在学中に詩とジャーナリズムを学んだ。一方、ジョン・ケイルは、ウェールズ出身で、ロンドンで作曲や音楽理論を学んだ後、ニューヨークに渡り現代音楽に取り組んでいた。
この2人は1960年代にマンハッタンで出会いヴェルベット・アンダーグラウンドを結成。初期のメンバーはこの2人加え、スターリング・モリソン(ギター)、アンガス・マクリーズ(パーカッション)の二人が加入したものの、すぐにアンガスが脱退。その後、モーリン・タッカー(ドラムス)が加入している。
1965年頃、ヴェルベット・アンダーグラウンドは、ニューヨークの「カフェ・ビザーレ」を中心に活動していた。彼らの演奏を観るように友人に勧められたアンディ・ウォーホルは、その演奏に感銘を受ける。彼らは、黒ずくめのレザーにサングラス姿で、大音響でヘロインを打つ男の苦悩と歓喜を歌い上げていた。
アンディは彼らを彼のファクトリーに呼び寄せ、「ドム」というクラブを開店し、彼らをハウスバンドに迎え入れた。その後、ヴェルベット・アンダーグラウンドは、ニューヨークのヒップな文化人や若者の間に瞬く間に知れわたる。アンディ・ウォーホルは、ドイツ人の元モデルのニコという女性をバンドにヴォーカルとして加入させた。そして、1967年3月、遂にヴェルベット・アンダーグラウンド&ニコを発表。そのアルバムは楽曲ももちろんだが、そのバナナのアルバムジャケットも非常に有名である。
この特徴あるアルバムジャケットはアンディ・ウォーホル本人の作品であるが、ほかにストーンズのジーンズのジッパー付きのジャケットも良く知られている。このようなことから、ヴェルベット・アンダーグラウンドは当時、本物のロックバンドであったものの世に送り出したという点で、アンディ・ウォーホルは極めて重要な役割を果たしていた。
デビューアルバム制作当時から、ルー・リードは、ニコがアンディの意向で加入し、良い楽曲のヴォーカルを担うのが気に入らなかったようである。ルー・リードは自分が作曲した楽曲は自分が歌いたがったらしい。結局2枚目のアルバム、ホワイト・ライト/ホワイト・ヒートではアンディとの関係を断ち、ニコも脱退した状況で制作されている。ヴェルベット・アンダーグラウンドの主導的立場だったルー・リードとジョン・ケイルは次第にうまくいかなくなり、犬猿の仲などと言われるようになる。2枚目のアルバム制作後に、ルー・リードによりジョン・ケイルは脱退させられてしまう。
その後、ルーリードもヴェルベット・アンダーグラウンドを脱退し、ソロとして活動することになる。ヴェルベット・アンダーグラウンドは確かに素晴らしいが、ルーリードのソロ時代の作品も全く遜色ない。ルーリードは詩だけで鑑賞に耐えるもので、ロックの歌詞としては稀有な存在だと思う。
Trouble With Classicists 。 Classicists とは古典主義者。
It Wasn't Me この楽曲もギターが素晴らしい。
ヴェルベット・アンダーグラウンド解散以後、2人の競演なんてありえない状況にあったが、1987年2月、アンディ・ウォーホルが突然亡くなった。その直後に、ルー・リードとジョン・ケイルが再会。アンディ・ウォーホルに捧げる、「Songs for Drella」を完成させている。Drellaとは、シンデレラとドラキュラを掛け合わせたもので、ウォーホルのニックネームだった。このアルバムは1990年に発表されている。
上のライブ映像は1989年12月のブルックリンで、真っ暗の中、無観客で演奏されたものである。このライブでは、Songs for Drellaと同じ曲順で演奏されている。おそらく、これには理由がある。Songs for Drellaは、フィクション的にウォーホルの人生を走馬灯のように表現したものだ。もしかしたら部分的にはノンフィクションだったかもしれない。この曲順はウォーホルの人生そのものだった。ただし最後の楽曲、Hello It's Meだけは違う。
Hello It's Meは、ルー・リードによるウォーホルへの書簡のような内容になっている。あるいはメッセージというべきか。ルーリードは、ウォーホルの元を離れた後、あらゆる場面で彼に対し冷たかった。Hello It's Meの歌詞には、その謝罪のニュアンスがある。
ルー・リードは大観衆の前でライブをするのは苦手という。彼はその理由として、「自分はプライベートな人間だから」と説明している。(ただし彼はウェンブリーで7万2千人の前で演奏したことがある)
ルー・リードは、旧体制チェコスロバキアが崩壊し新生チェコスロバキアが誕生した時期、プラハで初代大統領ヴァーツラフ・ハヴェルにインタビューしている。この時、ハヴェルから、チェコスロバキアの革命(ビロード革命)にヴェルベット・アンダーグラウンドの楽曲が非常に貢献したと告げられる。
旧体制のチェコスロバキアでは、西側のロックの演奏するだけで犯罪だった。それでもなお、アンダーグランドで音楽活動を続けた人たちがいた。彼らも、ビロード革命を推し進めた人たちだったのである。
そういえばごく最近、プラハの春の時代、メキシコオリンピック女子体操で個人優勝したチャスラフスカさんが亡くなった。彼女はソ連の軍事介入に抗議し、濃紺のレオタードで出場している。彼女はろくに練習時間もない中、圧倒的な強さで個人2連覇し、種目別でも4種目中、3種目で金メダルだった。彼女も新生チェコスロバキア誕生時に政府に入り活躍している。
また、ルー・リードがチェコスロバキアに関係が深いのは、アンディ・ウォーホルのルーツがチェコスロバキアにあるのも関係している(正確には現スロバキア。彼の出生については諸説あるが、スロバキアからの移民の子と言う話である)。
ルー・リードは、ヴァーツラフ・ハヴェルに会う際に、このSongs for DrellaのCDをプレゼントしている。またルー・リードには、日記サイズの黒い本が贈られた。これは、ルー・リードの手刷りの歌詞集で、チェコ・スロバキア語に訳されたものだった。たった200部だけ制作され共産党支配時代は持っているだけで刑務所に送られるものであった。
ルー・リードの代表曲に「ヘロイン」がある。
Velvet Underground - Heroin (live in Paris)
この楽曲は、ルー・リードが大学生の時代、自らの体験を元に書いたものだ。彼はこのドラッグのために全身の関節が麻痺し、病院で「致命的な皮膚結核」の疑いがあると診断された(実は誤診)。彼自身、「私はメディケアの最初の患者の1人だった」と言う。彼は、友人の葬式に出席するという口実で病院を脱出している。
彼の詩の中で、しばしばアメリカの精神科病院について触れられている。実際の病院名も出てくる。(例えば、クリードムア、ペイン・ウィットニー。ともに精神科病院)
また、当時の精神科病院で使われていた薬の名前も出てくる。(例えばソラジン=クロルプロマジン。西洋人には使われる量が断然多い)
ルー・リードは17歳の時に、精神科病院で電気ショックを計24回受けたと言う。実際に、その治療の光景が浮かび上がる詩もある。
少なくともルー・リードにとって、電気ショックや精神科治療薬、ひいては有害なドラッグに至るまで、マクロな面で彼のインテリジェンスや芸術の才能を障害していない。
ルー・リードはこれら違法ドラッグの濫用やバイセクシャルだったことも含め、酷い生活状況にしては長生きしたと言える(享年71歳)。また、死に至るほとんど直前まで音楽活動も続けている。
彼は最終的に肝不全となり、おそらく肝移植の経過が悪かったために亡くなっている。それらは、C型肝炎と長年のドラッグによる肝障害の双方が原因だったのだろう。
参考
Cremation (Ashes To Ashes)