過去ログに、これから胃癌で死亡することわかっている母親が自分の前で泣き崩れる場面が出てくる。その理由は、入院中の子供の将来が心配でならなかったからである。(どこで書いたのか記憶なし。なにしろ10年くらい続いているので)。
僕は彼を25年くらい治療しており、今も毎月1回診察に来ているので治療継続中といったところだ。
彼に最初に会ったのは、往診で収容した時である。病院車でPSWの男性職員と2人で自宅まで行き、そのまま病院まで収容したのである。彼は心不全を起こしておりもやは動けず、抵抗もなかった。あのまま放置したら亡くなったかもしれない。母親の依頼で同じようなことが数回あったが、10回まではなかった。
基礎疾患は統合失調症であるが、アルコール依存症を合併しており、飲酒のためやがて心不全を起こすのである。このパターンを繰り返す人は彼しか知らない。
ある入院中、母親が病院を訪れ、自分が胃癌でありもやは余命がほとんどないことを告げた。その直後、泣き崩れたのである。
彼には当時は就労能力などない上、必然的に酒浸りになるため、母親のような見守る人がいなくなるとどうしようもないと言えた。つまり、母親が亡くなった場合、ずっと入院し続けるか、家で独りで住んで死亡するかしかない。
パレンス・パトリエ的な精神医療を否定する人たちは、その「入院し続ける」という選択肢を取らず、そのまま死亡する結末を容認する立場である。
全世界的に、例えばイタリア、アメリカのように精神科入院病棟を大きく削減した国は、反精神医学的な為政者(日本でいう厚生労働省)の意向が反映している。これは今のオバマ・ケアの廃止のように、手厚い国家の医療を共産主義的な政策とみなすと言うアメリカ的発想もあるが、このような政策を取ると、結果的に医療費が大幅に削減できる面が大きいと言われている。
実際のところ、精神医療のような福祉は見返りが乏しくお金を出しっぱなしになるので、できれば当事者に亡くなってもらった方が良いと言う黒い意図がある。
アメリカやイタリアでは精神疾患で自ら死ぬのも、あるいは医療を受けずに死ぬのも、かなり本人に裁量権が与えられているように見える。
それに対し、日本の精神医療はかなり、というより世界中でも稀有なほど面倒見が良い国家と言える。おせっかいなほど。
日本がこのような政策をある程度維持しようとしているのは、さまざまな理由があるが、島国で実質的に単一民族国家なことが大きいように思う。「皆でなんとか面倒をみてあげる」と言った感じである。アメリカなどは、他国からの移民や不法に侵入し住み着いてしまう人たちが多いので、彼らへの医療福祉で国が傾くのを良しとしないのであろう。
その点、手法が全く異なるが、同じ島国のイギリスも医療などの福祉が厚い点が似ている。ドーバー海峡を挟んでヨーロッパと近い地政学的な位置にあるが、国境が簡単に越えられないことは大きい。
話を戻すが、彼は母親が亡くなった後、家に帰る術がなくなり、相当に長い期間入院せざるを得ない状況になった。
ところがである。人生はわからないものである。ちょうどそのような時期、ジプレキサが発売になったのである。ジプレキサはエビリファイのようにピンポイント系ではないので、副作用も多いが、劇的に局面を変える能力を持ち合わせている。
彼にジプレキサを処方して以降、病棟内でも目に見えて生活が整い始めたのである。その結果、1年くらい経つと中間施設のような住居に退院できそうな感じになった。しかし、問題点はアルコール依存があるので、セルフコントロールできるかであった。
中間施設に出た後、2回ほど酒で失敗して舞い戻ってきた。しかし、それ以降、ちょっと予想ができなかった経過を辿るのである。
なんと、彼は週に1回ほど晩酌をするが、そのまま破綻せず生活できるようになった。
この週に1回だけ晩酌というのが、あまりにも元アルコール依存症っぽくない。これができないからアルコール依存症なのにどうなってるの?といったところだ。彼はこのレベルでもう10年以上安定している。ジプレキサの向精神作用の厚みはこういうところにも顕れている。
彼は、今はA型事業所で、非常に勤務態度、就業能力ともよく1か月に給料が8万円だという。これに加え、障害年金2級を1か月あたり6万5千円受給しているので、1か月の生活費は14万5千円である。もちろんボーナスはないが単身で生活できない額ではない。
過去ログに精神科医が医療経済、ひいては国家財政の面で貢献する部分が大きいと言う記載がある。彼が入院しっぱなしで入院医療費がかかり続けるのと、今のように6万5千円だけで済むのでは国から見ると大違いである。(細かいことを言うと、他に自立支援法で医療費の補助を受けているが、この額は僅かである。)
彼はもう8年以上前にアパートに出て独り暮らしをし訪問看護も受けていないため、例えば共同住居や中間施設のように見守る人たちがいない。しかしA型事業所は一部、福祉系の知識がある人たちもサポートしているので、全く放置されているわけではない。
彼は生活保護を受けたことがなく、市町村の福祉ケースワーカーも関与しないため、今は彼の詳細なファイルはないのではないかと思う。唯一、うちの病院のカルテと過去の入院記録だけだ。
結局、泣き崩れた母親が心配していたような悲惨な経過にならなかったのである。
参考
各国における精神科の非任意入院 (パレンス・パトリエに触れている)